
私の母方の祖母は元気な長寿で、104歳迄生きました。
令和になる直前でした。
大正4年、福島県の生まれでした。
亡くなる3日前の施設内でのカラオケ大会では、なんと優勝していたそうです。
車椅子でマイクを握る姿を職員の方が写真を撮られており、通夜の席で見せて頂きました。
最後に生活していた施設では最高寿だったらしく、多分情状加点して貰っていたのでしょう。
そして職員の方が仰るには、最後まで口から食べ物と飲み物を摂ろうとしていたそうです。
私が生きている祖母に最後に会ったのは、その半年前近くでした。
叔父から祖母が食欲が落ち、いつ最期になってもおかしくない状況だと連絡を貰った時でした。
母は祖母の為に高額な桃を買い、小さく切ってタッパーに詰めて持ち込みました。
その桃さえ上手に食べることが出来なくなったようで、無理に祖母の口に桃を入れようとする母を止めた記憶があります。
ああ、おばあちゃん、今度の誕生日迎えることは出来るのかなぁと思っていました。
なので職員の方のお話にはとても驚きました。
あれから祖母は体調のいい時も悪い時もあったのでしょうが、口が動く限り、カテーテルでの栄養摂取を祖母は拒んだのかもしれません。
祖母はかなり「きかない」女性でした。
言い出したら我を押し通す強さを持っていました。
祖母の話を聞くのはとても子どもの頃から苦痛だった記憶があります。
その我の強さで、母を初め叔父叔母も閉口していたらしく、見送る段階になっても惜しがることもなく、祖母らしい最期だったと笑って呆れていました。
祖母との思い出の中で強いのは、遊びに行くと必ずご馳走を作って待っていたことです。
得意料理は天ぷらで、その祖母の天ぷらは母も私も真似ることが出来ない美味しさでした。
天ぷらは祖母がサービス付高齢者住宅に入れられる直前迄続き、最後は94歳位だったと思います。
夏休みはもちろんですが、圧巻だったのは毎年の大晦日でした。
祖父の兄弟夫婦から母の兄弟や従兄弟が狭い祖父母の家に集まり、襖をあけた大広間を作って沢山の料理が並びました。
祖母の口癖は「食べてけ」「食べさせてあげる」「食べなきゃダメだ」。
戦中戦後の混乱期も、「食べること」が一番大事と強く思っていたようです。
余談ですが、身体が弱いという自覚のある母が自宅でぐったりしている時に、小学生だった妹がどうしたものかと祖母に電話を掛けて母の看病をしようとした時に、「ところでぐったりしていても食べているのか」と聞いたそうです。妹は食べているよ、と答えたら、なら大丈夫だよと笑っていたそうです。
昔の人はメンタルなことも食べていれば大丈夫だと思っていたのでしょうね。
また、それどころではない時代を強く生き抜いてきたのだと思います。
お口から食べるのは大切なこと。
そしてそれが出来るだけで幸せなこと。